JSU - 日本人学生会 南三陸町 / Minami-Sanriku cho
 
被害状況

死亡:  15859人
行方不明: 3021人
警察庁より(被害状況

南三陸町体験記 - 2011

東京から志津川登米町5月28日から6月5日まで、Youth for 3.11(YF3)を通し、東京災害ボランティアネットワーク(東災ボ)に参加した。東京からバスで休憩を含め6時間、宮城県の志津川地区の支援に行った。拠点は志津川から車で20分ほどの登米市登米町(とめし、とよままち)にある保健センターの二階部分。ここ登米町は、宮城の明治村と呼ばれており、昔からの建物が数多く並んでいた。ここは震度7近く揺れた地域だが、やはり津波の影響が無かっただけ、必要なライフラインは全て通っていた。これは志津川とは大きく違う状況だった。しかし、古い建物が多かったため、玄関が傾いたり全壊した状態の建物が多く見られた。
志津川志津川地区は、震災発生から3ヶ月が経つ頃にも、散乱している瓦礫は多く、水道も寸断された状態であった。瓦礫の山は、海岸から3キロほど内陸まで押し寄せていて、ほとんどが未だ手付かずの状態。南三陸町志津川地区には、4階付近まで冠水した公立病院や、鉄骨だけが残った防災庁舎で知られている地域。建物から数十メートルの所に、昭和35年のチリ地震津波で押し寄せた津波の高さを示す看板があったが、今回の津波はそれの5倍以上はあっただろう。川を渡る橋のレールは、当時の波と瓦礫で押し曲げられた後が残り、骨組だけの防災庁舎は波の高さと威力を伝えている。病院には舟が2階の窓に突き刺さったままで、近くに記念に飾ってあったSLは倒れ、至る箇所がへこんでいた。海岸付近のアパートは、崩れはしてなかったものの、屋根に漁業用の網などが引っかかっていた。更に驚いたのは、丘の上にあった家までは半壊していたことだ。地域で大き目の避難所の志津川中学校では、6月3日にはようやく水道が復旧したが、出る水に塩水が混ざっている為、飲み水として使えない状態。自衛隊からの給水が必要だった。自衛隊給水車自衛隊はこの頃にも既に規模の縮小を始めており、避難所に洗濯機を追加導入し、避難者に洗濯機の使い方を説明したりし、撤収の準備をしていた。この時期は仮設住宅に移動を始める時期でもあった。しかし、全てを失った状態で仮設へ移り「自立」をすることに不安に思う方が多く見られた。しかし、逆に仮設が決まらないと、それはそれで、先が見えないことから不安に思う方もいた。しかし、一番の心配は元々のご近所さんと離れてしまった今、また避難所で知り合った方と離れてしまうのかということみたいだ。
登米保健センター活動内容としては、前で紹介した保健センターの二階を拠点として使わせて頂いていた。東災ボでは4班に分かれ活動。志津川高校の支援、志津川中学校の支援、旧入谷小学校で行われている思い出探し隊の写真展示会、そしてふれあい食事会。高校と中学では、そこで既に運営されているボランティア活動の支援。主に物資の仕分けや搬入、お手洗いなどの洗浄、子供の遊び相手や学校への送迎、お年寄りとお話しなど。写真展示会では、自衛隊や捜索隊が見つけた写真や私物をボランティア・センターがあるBay Side Arenaで洗浄したものを、展示している。思い出探し隊-写真展示会ここで持ち主本人、家族や親戚が見つけて頂いた場合、或いはよくお会いする知人が見つけて頂いた場合、持ち帰ってもらっている。更に、持ち主を特定できる場合、写真に載っている方を特定できる場合は、写真に付箋を貼り、持ち主に探し易く工夫している。しかし数が多いので、探し出すのには一苦労。とてもではないが一日では見切れない。何より多過ぎて学校で一回では展示しきれないのだ。展示会は今後も続くと予想される。最後の食事会は、普通の炊き出しに加え、極力被災者と一緒に食事をし、お話をすることを目的としていて、一種の心のケアである。特に学生だと、年齢的に孫なので、とても楽しそうにお話をしてもらえる。平均年齢が非常に高い東北地方にボランティアとしてでも学生が来ることが新鮮に感じているみたいで、皆、苦しい避難所生活の中笑顔を見せてもらえた。東北のお茶会、「お茶っこ飲み」を度々行った。お茶を飲んで、海苔やお菓子などを食べながらお話をする。そのみんなとの交流を皆楽しんでいました。